読谷文の本棚

読んで心に残った本の感想を綴ります。

『ネアンデルタール』レベッカ・ウラッグ・サイクス/野中香方子 訳|眼前に広がるネアンデルタール人の豊かな世界

 

ネアンデルタール
レベッカ・ウラッグ・サイクス 著 
野中香方子 訳
筑摩書房
初版年月日 2022年10月11日


原題「KINDRED:NEANDERTHAL LIFE,LOVE,DEATH AND ART」
「親戚:ネアンデルタールの生活、愛、死、そして芸術」


(ホモ・サピエンス含む)人類が、まだ文字を持たず、定住・農耕する以前の、先史時代の話が好きだ。
きっかけは「そもそも人体の脳や作りは、農耕にも、デスクワークにも、ワンオペ育児にも向いておらず、集団での狩猟採集生活に最適化した形になっている」という話を聞いたことだ。
現代の都市生活では、狩猟採集生活を送るわけにはいかないけれども、時間を見つけて身体を動かしたり、できれば走り回ったりするほうが、心身の健康を保つためには理にかなっているよな。だってそういう前提の作りになっているのだから。と、激しく腑に落ちた。
いや、それは「運動の神話」なんだ、という説もあるようだけれども。

そういうわけで、本書『ネアンデルタール』はとても興味深く、エキサイティングな本だった。
研究者である著者は、最新の研究を元にした様々な文献を紐解き、我々の親戚であるネアンデルタール人の生活を、まるで目の前で見てきたかのように、非常に鮮やかに描き出してくれた。

「この先のページには、21世紀のネアンデルタール人の肖像が描かれている。系統樹の枯れた枝にいた頭の鈍い負け犬としてではなく、非常に適応力があり、成功さえを収めた古代の親戚として。」(P17)


彼らの生活

彼らは、我々が生きたよりもはるかに長い時間、35万年もの間にわたって、大きな気候変動を何度も乗り越えながら、この地球上に存在していた。
有能な革の加工職人であり、精巧な石器を作るために、「質の良い石/悪い石」といった石の種類を熟知していて、今で言うところの地質学や物理学、運動力学に精通していた。
食料となる動物を解体するための解剖学にも優れ、自分たちの住む世界をとてもよく理解し、季節ごとに動物を追って、選択的に移動地点を決めていた。
加熱による物質の変化の知識があり、天然アスファルトや、樹脂と蜜蝋を混ぜた接着剤を使って石器を作っていた。
極寒の地で氷の息を吐きながらマンモス追っていただけでなく、ヨーロッパから中央アジアまで広範囲にわたって温暖な山地や海辺でも生活していて、鳥や植物や魚介類も食べていた。
彼らの家族像、怪我や病気にかかった同胞をケアして、そしてどう生き延びたか。
彼らの生活の細部を知れば知るほど、多くの驚きに満ちており、それらを描写する生き生きとした筆致に、大いに引き込まれながら読んだ。


研究者たち

さらに驚かされるのが、これらを解明してきた、研究者たちの地道な研究と、今世紀に入ってから急速に発展した科学技術の進歩である。さながら時空を超えた科捜研だ。
化石人骨の、歯にできた傷や成長速度、付着した歯石を、電子顕微鏡化学分析を使うことによって、気候変動や食べたもの、歯を使ってどういった作業をしていたか(革なめしなど)、食事に利用した石器の種類まで判別できてしまう。
最も驚いたのは、石器そのものではなく、石器を作るときに出た破片を残らず回収して、元の石塊に戻すという、いわばとんでもなく難しい4次元のジグソーパズルを完成させることによって、石器の作成過程を特定した、ということである。
この気の遠くなるような地道な作業には、本当に驚かされた。

「この10年はネアンデルタール人の時代だった」(P584)と言われるほど急速に研究が進み、ホモ・サピエンスネアンデルタール人が交配していたこと、我々のDNAの中にネアンデルタール人のDNAが数パーセント含まれていることが判明したことは、人類学史をゆるがすビッグニュースだったことだろう。
今後も新たな発見が続くことは間違いない。研究者に敬意を示しつつ、新たな事実の発見は読者として楽しみだと言うほかない。

 

我々はどこから来てどこに行くのか

著者はこう書いている。

「基本的に、わたしたちが長年、ネアンデルタール人の運命に執着してきた背景には、私たち自身の絶滅に対する強い恐れがある。(中略)私たちは絶滅の危険性を感じると、決まって私たちは常に生き残ったと言う心地よい話を聞きたがる。さらに、自分たちは特別だ、と感じたがる。そういうわけで、ネアンデルタール人についてわたしたちが聞かされた話のほとんどは、私たちは優秀で、生き残りを運命づけられていたので、彼らに勝ったと言う、自己陶酔的で励まされる物語だった。
しかしネアンデルタール人は本物の人間に向かう高速道路の途中にあるサービスステーションのような存在ではない。彼らも最新技術を備えた人間だったが、私たちとは種類が違っていただけなのだ。」(P575)

彼らを知ることは、わたしたちを知ることでもある。
著者はエピローグで、パンデミックと気候変動について触れている。産業革命以降、次の氷期は無期限に延期され、わたしたちはこれまでに誰も経験したことのない、気温が高く危険な世界で生きることになると。
ネアンデルタール人も同じように極端な気候変動を生き抜いたという事実は、わたしたちにとって慰めになるかもしれない」(P586)が、当時の地球と現在の地球とでは、絶望的な負荷の差があるのも事実だ。COVID-19による世界的なパニックが示したように、文明とテクノロジーの力をもってしても、どれだけ持ちこたえられるのかは誰にもわからない。

わたしたちにできるのは、驕ることなく謙虚に学び続けることだろう。
そして人類の叡智を信じたいし、信じて歩むことしかできない。

 

構成

丁寧で読みやすい訳文と、豊富な索引、簡潔にして十分な図が載せられていて、非常にわかりやすく、地質学や古気候学にくわしくない私でも、すいすい読み進めることができた。
惚れぼれするほどシンプルで潔い装丁がとても素敵で、見返しに印刷された地図と年表は実用的で、何度も本文と照らし合わせた。

ネアンデルタール人の生活のみならず、研究者たちの発掘の歴史の物語としても、抜群に面白く、2021年ニューヨークタイムズ「今年の100冊」に選出され、19カ国で翻訳された世界的ベストセラー、というのも納得の一冊だ。

また、副読本として、色鮮やかな写真が豊富に掲載された下記の本も、大変興味深く、理解に役立った。

 

『くもをさがす』西加奈子|西さんが投げたもの

くもをさがす

くもをさがす

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『くもをさがす』
西加奈子 著
河出書房新社
初版年月日 2023年4月18日


途中で止めることができずに、夢中で読み続けた。
リビングで、就寝前のベッドの中で、料理や散歩をしながらSiriに読み上げてもらって、読み続けた。Siriは「力道山」のことを「ちからみちやま」とか言うし、Siriが読む関西弁はこれ以上ないほど棒読みなのだが、それがまた余計に泣けた。
読んでいる間ずっと、涙がだらだらと流れ続けて止まらなかった。

外国に住みながら、がんを宣告され、治療にあたる。
医療者からの説明も、たくさんの検査手続きも、読まねばならない書面も、すべて外国語だ。さらに、当時の世の中は、未知の新型コロナウイルス禍の真っ只中である。
心細くないはずがない。どれだけの恐怖だっただろうか。

ウィスラーで湯船に湯を溜めながら共に泣いた。
きれいな青虫と素敵なブーツの2人組を思い浮かべて泣いた。
Meal Trainの友人たちからのご飯を思ってまた泣いた。
これを書いている今も無性に泣けてくる。
なぜか。

そこにはがんの治療の記録だけが書かれていたのではなかった。
そこには、たくさんの女性たちの姿が描かれていた。
祖母のサツキとカナエ。
ラスナヤケ・リヤナゲ・ウイシュマ・サンダマリさん。
西さんと同じ年にイランで生まれたファティマ。

作家たちの美しく厳しい言葉が書かれていた。
レベッカ・ソルニット。
ウルフ。
アディーチェ。
トニ・モリスン。
アリ・スミス。
イーユン・リー。
ハン・ガン。

すでに読んだ本や、これから読もうと書棚に待機している、いずれも素敵な本たちや、その引用があった。
ひとりの双子。
ハムネット。
地上で僕らはつかの間きらめく。
私の体に呪いをかけるな。
もうやってらんない。
飢える私。
緑の天幕。

ジョージ・ソーンダーズの「十二月の十日」の引用には、大いに胸を掻き乱された。そして、そうか、全部ニュートラルなのか、と思った。
読むこと、そして書くことの力を思った。

✴︎

「あなたに、これを読んでほしいと思った。」と西さんは書いている。
あなたとは、彼女たちであり、そして私だった。
「82年生まれ、キム・ジヨン」を読んだ時と同じように思った。

西さんが「私は私の全てを投げたい。」と投げたもの。
それは、遠い遠いところから、美しい放物線を描いて、確かに、間違いなく、真っ直ぐに私のところへと届いたのだった。

『遠い家族 母はなぜ無理心中を図ったのか』前田勝|母を探す、三つの国への旅

『遠い家族 母はなぜ無理心中を図ったのか』
前田勝 著
新潮社
初版年月日 2023年3月29日

 

韓国人の母と台湾人の父の間に生まれ、日本人の義父の養子になって日本で暮らしていた著者は、大学入学を目前に控えた18歳の春、突然ひとりぼっちになってしまった。
母が義父を殺し、自身も自死したからだ。


複雑な幼少期

著者の複雑な半生のなかでも、幼少期は特に複雑で、目まぐるしく環境が変わる。
韓国で実父と母と家族3人で暮らした期間は生後たった3年しかなく、母親は仕事を求めて、著者を置いて日本へ行ってしまい、その後は一緒に暮らす人も、暮らす国も、数年ごとに変わる。
どこの国に住んでいても、ミックスルーツを持つ著者は「外国人」と差別され、親戚と一緒に暮らしているときは、その家の実子とは明らかに違う扱いを受ける。

台湾で過ごした小学校時代は、苛烈ないじめを受けて不登校になり、家出を繰り返すものの、中学入学と同時に渡った日本では、自分と同じように多様なルーツを持つ子たちが比較的多くいる中高一貫校に入学し、バスケットに打ち込むこともできて、学校が大切な居場所となる。
しかし、父と祖父と暮らした台湾でも、母と義父と暮らした日本でも、家に居場所はなかった。母と実父も、母と義父も、大体いつも揉めていたし、著者にとっては、彼らはなぜ結婚したのか、またなぜ離婚をしないのかと疑問に思うほどに口論が絶えなかったからだ。

母親とは一緒に過ごした時間が極端に短く、著者にとって母は常に自分を置き去りにする存在であった。日本で共に暮らしていた時期も、著者は家族と一緒に食事をとることは少なく、1人で夕食を食べることが習慣化していたそうだ。そうして、家族となかなか距離感を縮められないままに過ごしていたある日、突然凄惨な事件が起こってしまう。


母を探す

本書は、タイトル通り「なぜ母親は無理心中を図ったのか」その理由を解明していく過程を綴ったものだ。著者は、返ってこないとはわかりつつ、何度も何度もその問いを問い続けたことだろう。
紆余曲折を経たのちに、俳優の道を志した著者は、自分で舞台俳優を集め、自分の生い立ちから事件までの出来事を舞台化し上演する。そうして、心の中にある問いを自分なりに昇華させていった。

すると、その舞台が、「お母さんについてのエピソード」をテーマに聞いて回っているというテレビ局のドキュメンタリー番組製作スタッフの目に留まり、母の真実を探すテレビ番組を製作することになる。
取材のため韓国と台湾を訪れ、そこで韓国の親戚や実父との再会を果たし、母がどんな人で、どういう思いであったかを知る。その真実を知りたい方は、ぜひ本書を手に取って読んでみてほしい。

母がどんな思いで、日本へ渡ったのか。
母にも実父にも、友人はいたのか。
実父の母への思い。実父と母の馴れ初め。
そして義父と母の出会いと、義父への思い。
韓国の親戚たちからこれまで聞けなかった話。

これらの出来事は、著者が「母のことを知りたい」と強く思って舞台にしたことから始まり、そして実現した。その過程で色々なことが明るみになっていく様子には、鳥肌が立つようだった。


家族とは

昨今、「家族」とは、息苦しいものだという意見のほうが圧倒的に多いと感じる。しかし著者のように、家族との縁が薄かった人、誰もが当たり前に持っているとされるものを受け取れなかった人にとっては、切実に求めて止まないものなのだ、とも、改めて思う。
子どもは親を求める。それがどんな親であっても、やはり子どもは生来的に親が大好きなのだ。例外はあるにせよ。

著者の素直で飾らない文章にはとても好感が持てたし、なにより、ものすごい経験を何度もしながら、負けずに這い上がり、ひたむきに努力する姿に大いに感銘を受けた。
著者が、バスケットと仲間と俳優という仕事に出会えたこと、そして、今まで知らなかった実父と母の様々な思いを知ることができたことが、本当に良かった、と心から思う。
著者のお母様とお義父様が安らかであるよう祈ります。

『成瀬は天下を取りにいく』宮島未奈|膳所(ぜぜ)から世界へ!ニュー・ヒロイン、滋賀に現る

『成瀬は天下を取りにいく』
宮島未奈 著
新潮社
初版年月日 2023年3月17日


終始、眩しくて仕方なかった。
清々しいまでの溢れる滋賀愛、そして、なんてことない日々だからこその青春の日常が。あった、あったよ、こういうの。と読者自身の中高生時代を思い出さずにはいられない。

本書は、静岡県出身、滋賀県在住の著者、宮島未奈さんのデビュー作で、2006年生まれの主人公、成瀬あかりの中2から高3までを描いた連作短編小説だ。本人の1人称の語りではなく、周囲の人物から見た成瀬あかり史が語られていく。
「RPGの村人みたいな口調」(P146)で話す成瀬あかりの特異なキャラクターの魅力は言うまでもなく、そんな成瀬と、かるた大会出場のため広島から来た青年西浦を描いた『レッツゴーミシガン』も大好きなのだが、個人的にいちばん刺さったのは『線がつながる』だ。


『線がつながる』

膳所(ぜぜ)高校1年生、成瀬あかりと同じ中学から来た唯一のクラスメイト大貫かえで。新入学後の学校生活における、新たな友人づくりにまつわる逡巡が、懐かしくも苦しく思い出される。成瀬あかりの親友で、2人とは別の高校に進学した島崎みゆきと、大貫かえでが下校中に偶然会う場面。

「また成瀬のこと教えてね」
島崎は手を振って去っていった。私に興味がないにしても、そんな言い方はないんじゃないか。(P122)

そんな些細だけれど確実に寂しさを感じる一瞬をを見事にすくい上げている。と思いきや、大貫かえでと一緒にお昼を食べている大黒悠子からは、

「かえでって、わたしのことどうでもいいと思ってるでしょ」
「わたしに興味がないんだろうなって前から思ってたの。それは仕方ないことかもしれないけど、明らかにこっちに伝わっちゃうのはどうなの?」
(P130)

と、かえで自身がカウンターをくらって狼狽する。こうした心の動きが、まるでカメラのシャッターを押されたかのごとく鮮明に描写されていて、胸をぎゅうっとつねられる。さらに、一見関係ないように思われた登場人物たちが、すべての章を通して、きちんと、きれいにつながっていくのが実に見事だなあと思った。


成瀬とパンデミック

さらに言うならば、『ありがとう西武大津店』で描かれた西武大津店が閉店するのは2020年8月で、新型コロナウイルス禍の真っ只中なのである。そこに描かれているのは、いわばコロナ禍の青春であって、「ソーシャルディスタンス」とか「小池百合子みたいなレースのマスク」とか、もはや懐かしさすら覚えつつある用語がでてきて、ああそうだった、と当時の緊迫感と風景がまざまざと思い出される。ダイヤモンド・プリンセス号、一斉休校、そして東京オリンピックの延期が決まった、あの年の夏が。

コロナ禍が描写された作品は他にもあるだろうが、本書も間違いなくそのひとつで、その意味では「パンデミック小説」とも言える。であるならば、この『成瀬は天下を取りにいく』は、“21世紀の『ダロウェイ夫人』”と呼んでも差し支えないのではないだろうか。それぐらい鮮やかに当時の状況と空気を書き切っていると思う。

 

滋賀愛

そしてこの小説の読みどころといえばやはり、成瀬あかりと同じぐらい魅力的に描かれた滋賀の描写だろう。読めば、きっと聖地巡礼をせずにはいられない。茨城県在住のわたしは「滋賀県、羨ましっ!」と心の底から思った。

わが茨城県には、琵琶湖に次いで2位の面積を持つ湖、霞ヶ浦があり、県外から釣り人や自転車乗りもやって来る。が、そこで泳ぐ人は基本的にゼロだ(と思う)。つまり泳げる所ではないし、何なら周辺では泥の中で育つ蓮根と、汽水域の沼で採れるしじみの産地として有名で、なんというかイメージ的に文字通り泥くさいのだ。
霞ヶ浦からは、百人一首にも登場する筑波山が遠く臨めるが、比良山系の雄大さには敵わない(ような気がする)。広大な太平洋には面していて、大洗などの一部地域では泳げるし、他県からサーファーもやって来るが、九十九里や湘南のようなリゾート感はない。 

そう、ほしいのはリゾート感。湖水浴のできるリゾート感に、最も憧れてしまう。2022年の都道府県魅力度ランキングでは、滋賀県38位、茨城県46位(で最下位を佐賀県に奪還されてしまった)だそうだが、ついつい自虐に走りがちな茨城県民にとって、直球の滋賀愛に溢れた『成瀬は天下を取りにいく』は、もう眩しくて仕方がないのであった。

我々は今伝説を目の当たりにしている-大谷翔平と栗山英樹監督

WBC勝戦 アメリカを下して日本優勝。最終回、3-2の9回にDHを解除して大谷翔平が救援登板。最後は同僚のトラウトを空振り三振に抑えて、試合終了。

なんじゃこのドラマは。

そして栗山英樹監督の気持ちを考えると、いてもたってもいられなくなる。

「高校卒業後は日本のプロ野球ではなく、渡米してマイナーリーグからメジャーリーグにチャレンジしたい」と希望していた大谷翔平を、栗山監督は「メジャーで活躍するためにまずは日本で二刀流の実績を作ろう」と説得し、日本ハムファイターズへの入団を決断させるに至る。『大谷翔平君 夢への道しるべ〜日本スポーツにおける若年期海外進出の考察〜』と題された30ページに及ぶ資料を提示して。

大谷自身、花巻東高校時代には目標達成シートに27歳で「WBC日本代表MVP」と記していた。

そんな監督と選手が作ってきた道のりの先にある夢を、2人同じ場所で本当に本当に叶えたのだ。こんな夢みたいな、漫画みたいなことが現実に起こりうるとは……( ゚д゚)ポカーン と、大谷翔平を見ていると何度も何度も実感させられる。普段そこまで野球を知らない一般人のわたしでも。

『じゃむパンの日』赤染晶子|笑いと哀愁の不思議ワールド

 

『じゃむパンの日』赤染晶子
palmbooks
初版年月日2022年12月1日

 
本書によると、著者赤染晶子さんは、綿谷りささんと金原ひとみさんが芥川賞を受賞した2004年に文學界新人賞を受賞してデビューし、2010年に『乙女の密告』で芥川賞を受賞している。著者は2017年に42歳の若さで亡くなっており、本書が刊行されたことで、往年のファンの方々の間では、「また赤染さんの作品が読める!」と大変話題になっていたそうで、実際よく売れているとのこと。

本書は新聞や文芸誌に掲載された文章をまとめたもので、著者の子ども時代の話や、祖父や祖母の話、北海道での学生生活の話、そして作家になってからの話など、多彩な話題の中に、それぞれ濃密な世界が広がっている。

私は本書で初めて著者を知ったのだが、なんとも不思議なエッセイである。融通無碍で掴みどころがなく、ちょっとわけがわからない。著者の身近なことを記したエッセイだと思って読み始めると、虚を突かれる。いきなり新妻になったり、トイレに落書きをするサラリーマンになったりする。作家さんというのはかくも妄想力たくましいものかと感心してしまう。ご自身の作風を「笑える昭和路線」と称していて、確かにぴったりだ。けれども決して笑えるというだけでなく、笑いの中に哀しみもある。ペーソスというやつか。

成人式には参加しないけれど、成人式の前日に、髪型を変えようと美容院に行った際のエピソードを描いた、表題『チェンジ!』からの一節。

「人生にはどんな時もある」
美容室のおばちゃんが言った。
成人式の前日に、私は美容室に行った。
せめて今までの自分とは変わろうと思った。
(中略)
人生にはどんな時もある。おばちゃんの言葉には説得力がある。
(P75)

沁みる。

スピーチコンテストのコツを述べた『Let's スピーチ!』も素敵だ。可笑しい上になぜだか励まされる。しかしながらこの本の一番の読みどころは、巻末に収録された、著者赤染晶子さんと岸本佐知子さんの交換日記ではないだろうか。爆笑につぐ爆笑で、抱腹絶倒まちがいなしだ。全体として、笑いの中にも背中をそっと押されるところもあり、今落ち込んでいるという人に是非読んでもらいたい。わけがわからないなりに元気をもらえると思います。

『赤い魚の夫婦』グアダルーペ・ネッテル/宇野和美 訳|そこにある不穏を炙りだす

 

『赤い魚の夫婦』
グアダルーペ・ネッテル/宇野和美
現代書館
初版年月日2021年8月20日

こちらの本は、1973年生まれのメキシコの作家グアダルーペ・ネッテルによる短編集で、『赤い魚の夫婦』『ゴミ箱の中の戦争』『牝猫』『菌類』『北京の犬』の5作が収録されている。
訳者あとがきによると、本作は2年に1度スペイン語の短編小説集を公募して選考するリベラ・デル・ドゥエロ国際短編小説賞を受賞して2013年4月に刊行され、界隈で話題となっており、訳者ご自身も読まれて、ぜひ訳したいと思ったとのこと。

日本でも、昨年2022年の第8回日本翻訳大賞の最終選考5作にノミネートされたということで、かなり話題になっており、遅まきながら読んでみたところ噂に違わぬ怪作で、とても引き込まれて一気に読了した。

夫婦関係や親子関係といった人間関係の中で起こる、ちょっとした行き違いだとか、ふとした隙間に入り込んでくるモヤモヤ、そういうものから発する不安感が、詳らかに言語化されている。そしてその横に佇んでいる生き物たちが、より一層不気味さを加えてくるのである。
以下心に残った作品について感想を書いてみる。


表題作『赤い魚の夫婦』

読む前はなぜか勝手に老夫婦の話だと思っていたのだけれど、読んでみたら若い夫婦の話で、軽く予想を裏切られる。
「産後の恨みは一生」という、それはもうあるあるな話で、妊娠中の不安から産後の精神的肉体的な疲弊の辛さまでが克明に描写されていて苦しい。
世界中どこでも一緒なんだなぁと思って、めちゃくちゃ共感しながら読んだ。特にオレンジのくだり。夫の言動がアレで、家庭内の不穏な空気が生々しく、そこにじっといる魚たちがよりいっそう不穏さを増してくる。


『ゴミ箱の中の戦争』

大学で生物学を教える昆虫学者が、昆虫に興味を持つきっかけになった話を語り始めます。お、次の生物は昆虫か、と思いきや、ゴキ◯リが出てくる話です。そこでタイトルに納得。

主人公の少年は家庭の事情により、両親から離れて裕福な伯母の家に預けられることになる。伯母の家には、住み込みで働く家政婦のイサベルとその母クレメンシアの部屋が屋上にあり、少年にはその隣の部屋が与えられる。

少年は自分の元いた家と、伯母や従兄弟たちとの生活ぶりの明らかな違いに、明確な経済的格差を感じ、家の中でも学校でもなかなかなじめずに、孤独な日々を送っている。

そんな中、表題の戦争が始まるわけだが、これに対峙するイサベルとクレメンシアの態度が真逆で、2人とも真剣なところが妙にコミカルで面白い。

以下はとても共感したところ。すごい名文だなと思った。

「ゴキ◯リはひきだしや戸棚だけではなく、ぼくたちの意識のあらゆる隙間に入りこんできた。ゴキ◯リに悩まされたことのある人なら、ぼくが大げさに言っているわけではないのがわかるだろう。ゴキ◯リというのは、最後には強迫観念になるものなのだ。」(P62)

その後、戦争はあっと驚く結末を迎えるのだが、実はそれは長い長い伏線にすぎない。
最後にこの少年が昆虫学者を志すに至った経緯が(←たぶん)描写されるのだが、これがとても悲しくて切なくてやるせなく、そしてちょっと温かい。
作者はこの結末のためにこれまでの話を書いたのだなと思うと、その力量に圧倒されてしまった。


『牝猫』

主人公の大学生の女性が、2匹の仔猫(雄と雌)を迎えることになる。彼女は「この猫たちを守ってやらねば」という強い使命感を抱き、世話をし可愛がる。
雄と雌なのだから(そうでなくてもまたは1匹だけであっても)避妊・去勢手術をするのがペットを飼う上での常識だと思うのだが、彼女は生物の本能である生殖能力を奪うことに罪悪感を覚え、頑なに手術を拒否する。「そんなことのために、先生は獣医になられたのですか?」(P81)と言って。

当然ながらやがて牝猫が妊娠していることが発覚するのだが、同時に女性にもある出来事が起こり、運命に抗えず流されるままに事態が展開していく。

「アクシデントというものは存在しないという人がいる。わたしはそうは思わない。けれども、(中略)アクシデントだったのか、潜在意識のしわざだったのかはわからない。だが、考えもしなかったことなのは確かだった。」(P91)

「彼らに言わせれば、私たちは決断などしていない、私たちの選択はどれも皆、あらかじめ条件づけられているらしい。この時は、コンピュータならどう予測したかを確かめる機会はなかったし、今の私がその答えを知りたいかどうかもわからない。」(P91)

「彼女のとる行動がどれも、行き当たりばったりではなく、彼女が選んだものであるのは明らかだった。」(P93)

運命とはなにか、選択とはなにか、ということを考えさせられる作品だった。

 

 女性と雌のペット

同時に、読みながら「女性と雌のペット」というテーマで真っ先に浮かんだ作品がある。コロンビアの作家、ピラール・キンタナ著/村岡直子訳『雌犬』(国書刊行会 2022年・原書は2017年刊行)だ。
2人とも同じスペイン語圏の作家であり、刊行としてはこちらネッテルの『赤い魚の夫婦』が先ということになる。であれば、キンタナは絶対にこの『牝猫』を読んでいると思うんですよね。全く別の話ではあるのだが、扱っているテーマはシンクロしている。

『雌犬』も、この『牝猫』に負けず劣らず素晴らしい作品なので、『牝猫』が気に入った方はぜひ読んでいただきたい。200ページに満たない中編で、あっという間に読めます。世界に引き摺り込まれて、しばらく出て来れなくなります。

 

 

『菌類』

5作の中で、最も衝撃的な作品であった。
始まりは、母の足の爪に住み着く菌の話で、ふむふむ、よくある話だね、などと油断していると、とんでもないところに連れて行かれます。
え、その菌、え、それをそんな風にしちゃうの!?と、衝撃のオンパレード。

ありていに言えば、既婚者同士のいわゆるダブル不倫の話で、私は日ごろから恋愛や情事の類いのものは、単なる脳内のドーパミンの暴走による、いっときの病的な状態だと思っているので、その辺りの描写は「へー」としか思わないけれど、そこに菌の話が絡まってきた途端に、グロテスクさと残酷さでいっぱいになる。

そういった恋愛の苦悩と、菌の生態を繋ぎ合わせて、下記のように描写できようとは、まったくもって恐れ入りつつ、平身低頭して平伏すのみだ。

「恋心は、多くの場合、やはり思いがけない形で偶発的に芽生える。ある日、ほとんど気づかないほどのかすかなむずかゆさを感じたかと思うと、翌日には根をはり、まぎれもないものとなる。少なくとも見た目には。菌を根絶するのは、腐れ縁を絶つのと同様やっかいだ。」(P116)

「寄生生物というのはーー今ならわかるがーー、元来、不満をかかえた生き物なのだ。どんなに栄養を与えられ世話されても充足しない。隠れてしか生きられないのに、往々にして一方でそれが欲求不満のたねとなる。常に寂しい生き物だ。」(P119)

この驚きを、ぜひ味わってみてください。