読谷文の本棚

読んで心に残った本の感想を綴ります。

『成瀬は信じた道をいく』宮島未奈|成瀬あかりが帰ってきた!

『成瀬は信じた道をいく』
宮島未奈 著
新潮社
初版年月日 2024年1月24日


成瀬にまた会えてうれしい。
前作『成瀬は天下を取りにいく』に続き、第二作目の今作も主人公成瀬あかりの周囲の人々の視点で、成瀬の高三〜大学入学後の成瀬あかり史が語られている。
成瀬は常に世の中や人の役に立ちたいと思っていて、近所のときめき地区のパトロールをしたり、バイト先のスーパー「フレンドマート」で起こる事件でも大活躍し、活躍の場をときめき地区から大津全域に広めたいと、びわ湖大津観光大使に立候補し、大使になってからも成瀬の活躍は続く。
初対面の人間からは「変わっている」と悪印象を持たれがちな成瀬であるが、最終的には皆必ず成瀬の魅力にとりつかれて、成瀬のファンになってしまうのだ。


登場人物の魅力  

そんな非凡ぶりを発揮する成瀬とは対照的に、語り手として登場する人物たちは、いかにも私たちの周りにいそうで親近感を持てるし、成瀬とはまた違った魅力にあふれている。
幼馴染同士の成瀬と島崎の漫才コンビ「ゼゼカラ」に憧れて成瀬に弟子入りした小学生北川みらいや、成瀬とともにびわ湖大津観光大使に選ばれた篠原かれん、成瀬のバイト先のスーパーの常連客で、なにかと店に難癖をつけ「お客様の声」への投書を欠かさない呉間言実(くれまことみ)など、実に個性豊かだ。

本人達はいたって真剣であるがゆえの可笑しさもありつつ、それぞれの人物の心情であったり、悩みや葛藤がとても細やかに描写されているのが、本作の魅力であり読みどころのひとつだ。
小学生の北川みらいが陰で友達に成瀬を馬鹿にされて傷つくところや、母と祖母に続いて観光大使になるべく育てられ、大使になった後もその先の道をそれとなく敷かれそうになることに反発する篠原かれんの心情描写などが、相変わらず素晴らしかった。

成瀬の親友島崎みゆきが、「成瀬はいつか自分のそばからふといなくなってしまうのでは」との不安から、自分はその瞬間を見たくなくて、あえて両親の転勤に伴って大津を離れて東京の大学への進学を決めたのではないか、と思い当たるところは胸に迫る。
同時に成瀬本人もまた、北川みらいを励ますために「島崎が東京の大学に進学することが不安なんだ」とこっそり打ち明ける場面があって、ああ成瀬も私たちと同じ人間なんだと思わされ、なおかつ成瀬と島崎の友情の深さにも感銘を受つつ、読者はますます成瀬のファンになってしまうのだった。


『探さないでください』

圧巻は、最終章『探さないでください』だ。前作同様、これまで出てきた登場人物が集合する、という点のみならず、大晦日に「探さないでください」と書き置きを残して行方をくらました成瀬を皆で探すという、大変痛快な謎解きロード・ノベルとなっている。
第一作のタイトル『成瀬は天下を取りにいく』ってそういう意味だったの!?とか、確かに成瀬はけん玉をやっていたけど、それがそこに繋がるのか!という仕掛けがたくさん散りばめられていて、読み手のこちらは興奮冷めやらない。


滋賀のリアル

読書中にふと、びわ湖大津観光大使って本当にいるのかな?と思ってネット検索してみると、果たして本当に小説そのまんまのインスタグラムのアカウントが出てきて、まるで成瀬とかれんを実物化したのではないかと思うような大使2人がにっこり笑って写真に納まっており、驚いた。東京にあるアンテナショップ「ここ滋賀」というお店も実在しているらしく、小説と現実のリンク具合にちょっとびっくりしてしまう。
もしや「観光大使-1グランプリ」もあったりして?と追い検索してみたが、こちらは架空の設定のようだった。そもそも2025年の話でもあるし。
そんな検索をうっかり読者にさせてしまうほどのリアル具合が、この成瀬シリーズにはあり、これも魅力のひとつだと思う。


デビュー二作目

普通、デビュー作でヒットを飛ばした作家の第二作目となると、読む方もそれなりに期待と心配の入り混じる複雑な感情を抱くし、書く方も相当プレッシャーなのではないかと勝手に想像してしまうのだが、この成瀬の作者の宮島未奈さんにおいては、まったくの無用な心配だったようだ。
下記のインタビュー記事(東京新聞 2024年2月11日付)によると、成瀬シリーズは第三作もありそうで、今から楽しみだ。これからもぜひ素敵な作品を大事に出していってほしいと、読者は願うばかりである。

 

 

『夜明けを待つ』佐々涼子|生と死を見つめ続けた作家の珠玉のエッセイ集

 

『夜明けを待つ』
佐々涼子 著
集英社インターナショナル
初版年月日 2023年11月24日


「珠玉」とは、まさにこのエッセイ集のためにある言葉だ、と思った。

本書はノンフィクションライター佐々涼子さんのエッセイとルポルタージュをまとめた作品集だ。なかでもエッセイは、新聞に掲載されたものが多く、短い文字数の中に必ずハッとする箇所があり、一編の中に驚くほど深い世界が広がっている。

佐々さんは、学生時代にはスキー部に所属し、若くして母親になり、多くの試行錯誤の末に40代でノンフィクションライターとなった。『未来は未定』に書かれた「若い頃わけあって赤貧だった。」から始まる文章には、ノンフィクションライターになるまでの多くの過程が書かれている。

ツイッターのアイコン写真では穏やかな笑みを湛えている佐々さんであるが、本書に記された半生と、困難に立ち向かうさまは、破天荒で豪放磊落と言ってもよく、こちらの勝手なイメージを心地よく裏切られた気分であった。世界中の僧院に修行をしに訪れたり、ジムでバーベルを挙げたりと、逞しい。
しかし、そのような胆力がなければ、ノンフィクションライターという厳しい仕事を続けられるはずもなく、むしろ当然だとも言える。
かといえば『ダイエット』の中に書かれた「巨大な黒い丸」なんていうユーモア溢れる表現に、お茶目な部分も垣間見えたようで嬉しかった。

佐々さんがこれまで出してきた作品のように、本書のほとんど全てのエッセイには「生と死」が色濃く反映されている。どのエッセイも、繰り返し読みたくなる素晴らしい作品だ。

矍鑠(かくしゃく)とした祖父が描かれた『「死」が教えてくれること』。
妻の死の先の父を描いた『幸福への意志』。
今なお存在するであろう問題に、私たちの怒りを代弁してくれた『背中の形』。
頭の中で世界の美しさが煌めく『今宵は空の旅を』は大好きな一編だ。
『献身』に描かれた、ご両親のお人柄と、文学の本質→「児童文学なんてと下に見る人がいるかもしれないが、そこには人間の人生の核が描かれていて、大人の小説はそれらの無数のバリエーションにすぎない。」は、まさに、と思った。
中でも私の一番は、専業主婦の母と佐々さんの人生が交錯する『梅酒』だ。
「長い時を経ないと、人の営みの本当の意味はわからない。」

今年2024年の正月は、能登半島の地震と羽田空港の飛行機事故で、どうにも心が塞がれて仕方がなかった。自分の心を守るためなるべく見ないようにと思っても、ニュースやSNSで情報を探してしまうのを止められなかった。もちろん今なお苦難の最中にある被災された方や、遠い国で続いている戦禍の中にある人たちを思うと、やりきれない思いでいっぱいになる。

そんな中で、この「夜明けを待つ」を読んでいると、乱れた心がすうっと落ち着いた。地面に染み込んだ雨水が長い歳月と共に形作った静謐な鍾乳洞があって、そこに湛えられた泉を地下深くに降りて行って覗いてきたみたいだった。

きっとこの先、一生そばに置き、何度も読み返すであろう、そんなエッセイとルポルタージュだった。
佐々涼子さん、素敵な本をどうもありがとうございました。
私もこう言ってお別れします。
「ああ、楽しかった」

『八ヶ岳南麓から』上野千鶴子|先輩の、山暮らし愛

『八ヶ岳南麓から』
上野千鶴子 著
山と溪谷社
初版年月日 2023年11月21日

 

上野千鶴子さんの、20年以上にわたる東京と八ヶ岳の二拠点生活を綴ったエッセイ。上野さんが私生活を書かれた本は、おそらく本書が初めてとのこと。

もうタイトルと表紙だけで、ちょっとうらやましすぎて鼻血が出そうなんだけれども、本が良すぎて、思わず丸善ジュンク堂で開催されていた刊行記念の著者トークイベントも視聴してしまった(美しいお庭の写真を見ることができて嬉しかった)。
 
四季折々の自然の美しさは言わずもがな、山暮らしの実際問題「これってどうするの?」へのtipsがたくさん書かれていて、実用書としても大変参考になる貴重な本だと思う。

土地探しから家を建てるまで。
(期間限定の中古も可、まずは貸別荘からのスモールステップを)
上下水道や、冷暖房、虫対策。
移動手段としてのクルマと運転免許証問題。
コミュニティはどうなっているの問題。
おひとりさまの最期問題。
色川大吉さんのこと。

合間に挟まれる鮮やかなイラストも素敵だ。
「大好きな北杜で最期まで」の章では、北杜市の介護事情の進化に触れられていて、その介護事業自体も素晴らしいし、それを立ち上げた看護師や医師の方たちのパワーが凄いなぁと圧倒された。

✴︎

人生を先行く先輩たちが楽しそうにしている様子を見るのは、とても励まされる。
私が目指す人生の先輩の二大巨頭といったら、橋田寿賀子さんと瀬戸内寂聴さんだ。お二人とも生涯現役で、書くことへの情熱を失わずに、筋トレやリハビリに励んでいた姿をテレビで拝見していた。

NHKで、沙知代夫人を亡くした野村克也さんと橋田寿賀子さんが対談していた番組を見たことがある。痛々しいほどにしおれてしまっているノムさんに対し、「元気があれば何でもできる!」と言わんばかりの橋田寿賀子さんがすごく対照的だったのを覚えている。

もちろん橋田寿賀子さんも瀬戸内寂聴さんも、非凡な才能と努力と体力と、それによって得た財力の持ち主で、凡人にははるか遠く及ばない存在かもしれない。
けれども、その心意気やスピリットを参考に、少しでも取り入れられることはないだろうかと考え抜き、手を動かすことならできる。少なくとも「あの葡萄は酸っぱい」とはなから目指さないよりは、いくらかマシなはずだ。
そう考えて毎日を生きている。

『一旦、退社。~50歳からの独立日記 』堀井美香|ジェーン・スーさんへのラブレター

『一旦、退社。~50歳からの独立日記』
堀井美香 著
大和書房
初版年月日 2023年2月16日

 

朝はラジオが流れている家庭で育った。チャンネルはTBSラジオ。

現在も放送されている朝の帯番組「森本毅郎・スタンバイ!」の前身である「鈴木くんのこんがりトースト」時代から聴いている。
夕方には、保育園のお迎えに来た母親の車の中で、夕飯前の小腹塞ぎに与えられたパンをかじりながら、カーラジオから流れてくる「小沢昭一の小沢昭一的こころ」を聴くともなく聴いていた。
話の内容は全く覚えておらず意味もわかっていなかったと思うが、あのオープニングの三味線っぽい音色の音楽は、私の記憶の中で、えも言われぬ夕暮れの郷愁と強く結びついている。

そんなわけで、幼少期からTBSラジオにはずっと馴染みがあって、もしも自分が結婚披露宴をするとして、金に糸目をつけずに司会者をお願いできるとしたら、ぜひとも元TBSアナウンサーの遠藤泰子さんにお願いしたい、という妄想を抱いていたくらいだ(実際には式場と契約されている素敵な司会者の方にお願いした)。

そして、ジェーン・スーさん。
私が初めて彼女を知ったのは、例の「石神井川の奇跡」の写真とともに掲載されていたブログの「東京生まれ東京育ちが地方出身者から授かる恩恵と浴びる毒」という記事を読んだ時だった。キレッキレの縦横無尽な文章に、「すごい文章を書く人が現れた、酒井順子さんの再来だ、要チェックやわ!」と一人鼻息荒く感動していた。
それからあれよあれよという間に「私たちがプロポーズされないのには、101の理由があってだな」「貴様いつまで女子でいるつもりだ問題  」と飛ぶ鳥落とす勢いで著書が刊行され、「ほ〜うらね、やっぱり彼女はすごいなぁ〜」と旧知の友人を自慢するみたいに思っていた。

さらに月日は流れ、気づいたらTBSラジオで、かつての「大沢悠里のゆうゆうワイド」の時間帯に「ジェーン・スー生活は踊る」という昼間の帯番組の放送が始まっていた。1本のブログ記事を見かけた時から気になっていたその方が、著書を刊行し、ラジオのレギュラー放送のパーソナリティーとなるまでを、勝手に伴走していた気持ちになりながら、眩しく見つめていた。

そんな「生活は踊る」で出会ったのがTBSアナウンサー堀井美香さんだった。当初月曜から金曜まで、毎日違うアナウンサーの方がジェーン・スーさんのパートナーを務められていたのだが、金曜担当の堀井美香さんとの回だけは、やっぱり他の曜日と比べて異色だった。
「メタウォーターpresents水音スケッチ」で情感たっぷりのしっとりとしたナレーションを聴かせてくれる堀井美香さんが、ジェーン・スーさんとの放送ではめちゃくちゃ気心知れた女友達同士のお喋りといった風情で話されているのを聴いて、ああ、このお二人はとっても仲がいいんだなぁと、ラジオ越しにそれはそれはよおーく伝わってきたものだった。

ところが、ある時期の改編で「生活は踊る」の金曜の放送がなくなることになった。聴取者としては、盟友堀井美香さんの気持ちはいかばかりかと、それって普通に絶対にとんでもなくショックだと思うけど、大丈夫なのだろうか、と、勝手に心配になっていた。

けれど、そんな心配はあっさりと覆された。時を同じくして、お二人のポッドキャスト番組「OVER THE SUN」が始まり、ジェーン・スーさんの「ミカちゃん、私たちはポッドキャストだよ」の言葉通り、番組はまたたく間に大人気となった。ラジオという枠を超えたお二人の喋りには、ますますドライブがかかり、実に生き生きとした女友達とのくだらないマシンガン爆笑トークに、一緒に参加しているような気分になれた。

そこで『一旦、退社。~50歳からの独立日記 』である。ナレーションが大好きだとおっしゃる堀井美香さんが、2022年にTBSを退社されフリーランスになってからの1年を記録したのが本書だ。

フリーランスでの活動内容や、ご家族やご自身のお話、朗読に対する思いとともに、「生活は踊る」の金曜放送がなくなった時の心境や「OVER THE SUN」が始まった背景などが書いてあった。泣けた。
ジェーン・スーさんとの出会いからこれまでのことも書かれていた。これは、この本は、間違いなく堀井美香さんからジェーン・スーさんへの、まごうことなきラブレターであった。

音声配信はますます隆盛を極め、プラットフォームも百花繚乱、いまや大沢悠里さん&毒蝮三太夫さんもポッドキャストを配信する時代(現在は終了)。これからも「スーミカ」お二人の活躍が楽しみでならない。

 

 

 

『精神の生活』クリスティン・スモールウッド/佐藤直子訳|終わりをめぐる物語

『精神の生活』
クリスティン・スモールウッド 著
佐藤直子 訳
書肆侃侃房
初版年月日 2023年8月4日


これまでになかった、“はじめて「流産」をテーマにした小説”という触れ込みに惹かれて本書を手に取った。

主人公のドロシーは、ニューヨークの大学で文学を教える非常勤講師の30代の女性で、今すぐに何か生活に困窮しているわけではないが、日々一生懸命働いていても、将来のための貯蓄や住居の購入などはできない、不安定な非正規雇用者だ。

そんな中、予期せぬ妊娠からの流産が確定し、大学の図書館のトイレで出血している場面から、本書はスタートする。いわゆる病院での吸引処置は行わずに、処方薬によって自然に体外に排出される方法を取っており、出血がしばらく続いている状態だ。

しかし意外にも、流産にまつわる話は、割合としてはそれほど多くは出てはこない。
ドロシーは、大学の授業をこなしながら、セラピストのもとへ通い、息子を出産した親友とメッセージのやりとりをしたり、仲間のホームパーティーに行ったり、学会でラスベガスに出張したりするのだが、一見して出来事だけ見れば、特に多くのことが起こるわけではない。そんな彼女の日常の生活が、ときおり現れる流産の現象とともに、淡々と描かれている。

その文章の大部分が、彼女の頭の中の独白で占められており、なるほどこれがタイトルの「精神の生活」の意味だったのか、と、最後の訳者解説を読んでようやく理解した。この訳者解説が非常に素晴らしく、これを読むだけでも本書を読む価値があるのではないかと感じた。
私はネタバレ回避のため、あとがきや解説は、本文を読み終わってから読むことにしているけれども、本書においては、最初にあとがきと訳者解説を読んでから本文を読んだほうが、より理解が進むと思う。

訳者佐藤直子さんの、しびれる解説の冒頭はこうだ。

「2021年に出版されたクリスティン・スモールウッド(Christine Smallwood)のデビュー長編小説である本書は、終わりをめぐる物語である。妊娠の終わり、キャリアの終わり、若さの終わり、世界の終わり、何かを求めることの終わり。より正確に言うならば、それは決定的な結末を迎えられずに物事がだらだらと終わり続ける、終わりのない終わりのプロセスについての物語である。」

何かオチがあるのかといえば、ない、と言って差し支えないだろう純文学的な小説で、私の読解力では、あまり読むのに得意な文章ではなかった、というか相当難儀したのだが(一文が長く、三人称の“彼女”という表記が頻出するが、その“彼女”が、誰のことを指すのかよくわからないことがままあった)、これは主人公ドロシーの脳内の独白をそのまま記したものなんだな、と思って再読してみると、すごくわかりやすい感じがした。

そしてこのドロシーの、自身の体や周囲の出来事をひたすら観察して、そこから発せられる心の動きが克明に記されているさまが、非常にユニークで面白かった。

たとえば、診察に訪れた産婦人科の待合室のBGMに関する描写であったり、

「これまでに世界中で録音されたすべての曲のリストから、誰かがこの曲をここで、この環境でかけることを選んだのだ。というかむしろ、誰かがこの音楽のような音楽を選んだのだ。ジャンルをセレクトして、あとはコンピューター任せ。この経験は、現代世界における多くのことと同じように、最低限の人間の意図/働きかけによってキュレーションされていた。」P87

同僚にむかつく言葉を投げかけられて、イラついているところの描写なんかがよかった。

「「秋の就活頑張ってね」というのが最後にエリースの言ったことだった。「結果を教えてね」。このドロシーの身分の低さと市場の浮き沈みへの言及とともに、共に過ごした時間に築かれたいかなる絆も切断されておじゃんになった。ドロシーはホテルのベッドで遅くまで起きて、怒り狂って携帯をクリックしまくり、ニュースの見出しを読み、友人とかれらの休暇、かれらの子供、ペット、ウケるからという理由で撮られた看板とデコナンバープレート、着ぐるみを着た猫、夕食、元気な緑色でつやつやした、かれらの美しい観葉植物の新しい写真に「いいね」しまくった。」P201

授業の前の時間を過ごすのに、非常勤講師室ではなくあえて教室に行くところや、最後の方の、図書館でコピー機を利用するのに一悶着するところなどに、非正規雇用者の不安とやるせなさと苛つきが鮮やかに表現されていたように思う。
自分は出世レースから脱落し、同僚が地位を勝ち取っていくシーンは胸が痛むし、親友ギャビーの最後の出来事は、ドロシーには大分キツいと思うのだが、それさえも淡々と書いてあって、傍観者ここに極まれりだなぁと、逆に感心してしまった。

また、博論指導教授のジュディスが団塊の世代で、老後の不安などなく蓄財できているのに対し、団塊ジュニア世代のドロシーが将来のぼんやりとした不安にさいなまれている様子は、アメリカでも日本と同様の世代間格差があることを示しており、私を含む団塊ジュニア世代以降の方々には大いに刺さる小説だと思う。

✴︎

余談だが、今年2023年の夏は、暑くて長くて本当に酷いもので、全く読書がはかどらなかった。とにかく「熱中症にならない」ことを目標に、最低限の日常生活をどうにかこなし、後はひたすら冷房を効かせまくった部屋の中でじっとしていることしかできなかった。

家事や買い物など、何かをする度に滝のように汗をかくから、その都度いちいちシャワーを浴びなければならなず、そうした暑さに起因する全てに、体力を奪われていると感じた。もしいま自分が高齢者だったら、フレイル待ったなしだろう、と恐怖だった。

東北でも北海道でも猛暑日の連続であったとなると、一体どこならいいのか図りかねているが、「夏は避暑地で暮らす」というのが、今のところの切実な将来の夢だ。

『ネアンデルタール』レベッカ・ウラッグ・サイクス/野中香方子 訳|眼前に広がるネアンデルタール人の豊かな世界

 

ネアンデルタール
レベッカ・ウラッグ・サイクス 著 
野中香方子 訳
筑摩書房
初版年月日 2022年10月11日


原題「KINDRED:NEANDERTHAL LIFE,LOVE,DEATH AND ART」
「親戚:ネアンデルタールの生活、愛、死、そして芸術」


(ホモ・サピエンス含む)人類が、まだ文字を持たず、定住・農耕する以前の、先史時代の話が好きだ。
きっかけは「そもそも人体の脳や作りは、農耕にも、デスクワークにも、ワンオペ育児にも向いておらず、集団での狩猟採集生活に最適化した形になっている」という話を聞いたことだ。
現代の都市生活では、狩猟採集生活を送るわけにはいかないけれども、時間を見つけて身体を動かしたり、できれば走り回ったりするほうが、心身の健康を保つためには理にかなっているよな。だってそういう前提の作りになっているのだから。と、激しく腑に落ちた。
いや、それは「運動の神話」なんだ、という説もあるようだけれども。

そういうわけで、本書『ネアンデルタール』はとても興味深く、エキサイティングな本だった。
研究者である著者は、最新の研究を元にした様々な文献を紐解き、我々の親戚であるネアンデルタール人の生活を、まるで目の前で見てきたかのように、非常に鮮やかに描き出してくれた。

「この先のページには、21世紀のネアンデルタール人の肖像が描かれている。系統樹の枯れた枝にいた頭の鈍い負け犬としてではなく、非常に適応力があり、成功さえを収めた古代の親戚として。」(P17)


彼らの生活

彼らは、我々が生きたよりもはるかに長い時間、35万年もの間にわたって、大きな気候変動を何度も乗り越えながら、この地球上に存在していた。
有能な革の加工職人であり、精巧な石器を作るために、「質の良い石/悪い石」といった石の種類を熟知していて、今で言うところの地質学や物理学、運動力学に精通していた。
食料となる動物を解体するための解剖学にも優れ、自分たちの住む世界をとてもよく理解し、季節ごとに動物を追って、選択的に移動地点を決めていた。
加熱による物質の変化の知識があり、天然アスファルトや、樹脂と蜜蝋を混ぜた接着剤を使って石器を作っていた。
極寒の地で氷の息を吐きながらマンモス追っていただけでなく、ヨーロッパから中央アジアまで広範囲にわたって温暖な山地や海辺でも生活していて、鳥や植物や魚介類も食べていた。
彼らの家族像、怪我や病気にかかった同胞をケアして、そしてどう生き延びたか。
彼らの生活の細部を知れば知るほど、多くの驚きに満ちており、それらを描写する生き生きとした筆致に、大いに引き込まれながら読んだ。


研究者たち

さらに驚かされるのが、これらを解明してきた、研究者たちの地道な研究と、今世紀に入ってから急速に発展した科学技術の進歩である。さながら時空を超えた科捜研だ。
化石人骨の、歯にできた傷や成長速度、付着した歯石を、電子顕微鏡化学分析を使うことによって、気候変動や食べたもの、歯を使ってどういった作業をしていたか(革なめしなど)、食事に利用した石器の種類まで判別できてしまう。
最も驚いたのは、石器そのものではなく、石器を作るときに出た破片を残らず回収して、元の石塊に戻すという、いわばとんでもなく難しい4次元のジグソーパズルを完成させることによって、石器の作成過程を特定した、ということである。
この気の遠くなるような地道な作業には、本当に驚かされた。

「この10年はネアンデルタール人の時代だった」(P584)と言われるほど急速に研究が進み、ホモ・サピエンスネアンデルタール人が交配していたこと、我々のDNAの中にネアンデルタール人のDNAが数パーセント含まれていることが判明したことは、人類学史をゆるがすビッグニュースだったことだろう。
今後も新たな発見が続くことは間違いない。研究者に敬意を示しつつ、新たな事実の発見は読者として楽しみだと言うほかない。

 

我々はどこから来てどこに行くのか

著者はこう書いている。

「基本的に、わたしたちが長年、ネアンデルタール人の運命に執着してきた背景には、私たち自身の絶滅に対する強い恐れがある。(中略)私たちは絶滅の危険性を感じると、決まって私たちは常に生き残ったと言う心地よい話を聞きたがる。さらに、自分たちは特別だ、と感じたがる。そういうわけで、ネアンデルタール人についてわたしたちが聞かされた話のほとんどは、私たちは優秀で、生き残りを運命づけられていたので、彼らに勝ったと言う、自己陶酔的で励まされる物語だった。
しかしネアンデルタール人は本物の人間に向かう高速道路の途中にあるサービスステーションのような存在ではない。彼らも最新技術を備えた人間だったが、私たちとは種類が違っていただけなのだ。」(P575)

彼らを知ることは、わたしたちを知ることでもある。
著者はエピローグで、パンデミックと気候変動について触れている。産業革命以降、次の氷期は無期限に延期され、わたしたちはこれまでに誰も経験したことのない、気温が高く危険な世界で生きることになると。
ネアンデルタール人も同じように極端な気候変動を生き抜いたという事実は、わたしたちにとって慰めになるかもしれない」(P586)が、当時の地球と現在の地球とでは、絶望的な負荷の差があるのも事実だ。COVID-19による世界的なパニックが示したように、文明とテクノロジーの力をもってしても、どれだけ持ちこたえられるのかは誰にもわからない。

わたしたちにできるのは、驕ることなく謙虚に学び続けることだろう。
そして人類の叡智を信じたいし、信じて歩むことしかできない。

 

構成

丁寧で読みやすい訳文と、豊富な索引、簡潔にして十分な図が載せられていて、非常にわかりやすく、地質学や古気候学にくわしくない私でも、すいすい読み進めることができた。
惚れぼれするほどシンプルで潔い装丁がとても素敵で、見返しに印刷された地図と年表は実用的で、何度も本文と照らし合わせた。

ネアンデルタール人の生活のみならず、研究者たちの発掘の歴史の物語としても、抜群に面白く、2021年ニューヨークタイムズ「今年の100冊」に選出され、19カ国で翻訳された世界的ベストセラー、というのも納得の一冊だ。

また、副読本として、色鮮やかな写真が豊富に掲載された下記の本も、大変興味深く、理解に役立った。

 

『くもをさがす』西加奈子|西さんが投げたもの

くもをさがす

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『くもをさがす』
西加奈子 著
河出書房新社
初版年月日 2023年4月18日


途中で止めることができずに、夢中で読み続けた。
リビングで、就寝前のベッドの中で、料理や散歩をしながらSiriに読み上げてもらって、読み続けた。Siriは「力道山」のことを「ちからみちやま」とか言うし、Siriが読む関西弁はこれ以上ないほど棒読みなのだが、それがまた余計に泣けた。
読んでいる間ずっと、涙がだらだらと流れ続けて止まらなかった。

外国に住みながら、がんを宣告され、治療にあたる。
医療者からの説明も、たくさんの検査手続きも、読まねばならない書面も、すべて外国語だ。さらに、当時の世の中は、未知の新型コロナウイルス禍の真っ只中である。
心細くないはずがない。どれだけの恐怖だっただろうか。

ウィスラーで湯船に湯を溜めながら共に泣いた。
きれいな青虫と素敵なブーツの2人組を思い浮かべて泣いた。
Meal Trainの友人たちからのご飯を思ってまた泣いた。
これを書いている今も無性に泣けてくる。
なぜか。

そこにはがんの治療の記録だけが書かれていたのではなかった。
そこには、たくさんの女性たちの姿が描かれていた。
祖母のサツキとカナエ。
ラスナヤケ・リヤナゲ・ウイシュマ・サンダマリさん。
西さんと同じ年にイランで生まれたファティマ。

作家たちの美しく厳しい言葉が書かれていた。
レベッカ・ソルニット。
ウルフ。
アディーチェ。
トニ・モリスン。
アリ・スミス。
イーユン・リー。
ハン・ガン。

すでに読んだ本や、これから読もうと書棚に待機している、いずれも素敵な本たちや、その引用があった。
ひとりの双子。
ハムネット。
地上で僕らはつかの間きらめく。
私の体に呪いをかけるな。
もうやってらんない。
飢える私。
緑の天幕。

ジョージ・ソーンダーズの「十二月の十日」の引用には、大いに胸を掻き乱された。そして、そうか、全部ニュートラルなのか、と思った。
読むこと、そして書くことの力を思った。

✴︎

「あなたに、これを読んでほしいと思った。」と西さんは書いている。
あなたとは、彼女たちであり、そして私だった。
「82年生まれ、キム・ジヨン」を読んだ時と同じように思った。

西さんが「私は私の全てを投げたい。」と投げたもの。
それは、遠い遠いところから、美しい放物線を描いて、確かに、間違いなく、真っ直ぐに私のところへと届いたのだった。