読谷文の本棚

読んで心に残った本の感想を綴ります。

『赤い魚の夫婦』グアダルーペ・ネッテル/宇野和美 訳|そこにある不穏を炙りだす

 

『赤い魚の夫婦』
グアダルーペ・ネッテル/宇野和美
現代書館
初版年月日2021年8月20日

こちらの本は、1973年生まれのメキシコの作家グアダルーペ・ネッテルによる短編集で、『赤い魚の夫婦』『ゴミ箱の中の戦争』『牝猫』『菌類』『北京の犬』の5作が収録されている。
訳者あとがきによると、本作は2年に1度スペイン語の短編小説集を公募して選考するリベラ・デル・ドゥエロ国際短編小説賞を受賞して2013年4月に刊行され、界隈で話題となっており、訳者ご自身も読まれて、ぜひ訳したいと思ったとのこと。

日本でも、昨年2022年の第8回日本翻訳大賞の最終選考5作にノミネートされたということで、かなり話題になっており、遅まきながら読んでみたところ噂に違わぬ怪作で、とても引き込まれて一気に読了した。

夫婦関係や親子関係といった人間関係の中で起こる、ちょっとした行き違いだとか、ふとした隙間に入り込んでくるモヤモヤ、そういうものから発する不安感が、詳らかに言語化されている。そしてその横に佇んでいる生き物たちが、より一層不気味さを加えてくるのである。
以下心に残った作品について感想を書いてみる。


表題作『赤い魚の夫婦』

読む前はなぜか勝手に老夫婦の話だと思っていたのだけれど、読んでみたら若い夫婦の話で、軽く予想を裏切られる。
「産後の恨みは一生」という、それはもうあるあるな話で、妊娠中の不安から産後の精神的肉体的な疲弊の辛さまでが克明に描写されていて苦しい。
世界中どこでも一緒なんだなぁと思って、めちゃくちゃ共感しながら読んだ。特にオレンジのくだり。夫の言動がアレで、家庭内の不穏な空気が生々しく、そこにじっといる魚たちがよりいっそう不穏さを増してくる。


『ゴミ箱の中の戦争』

大学で生物学を教える昆虫学者が、昆虫に興味を持つきっかけになった話を語り始めます。お、次の生物は昆虫か、と思いきや、ゴキ◯リが出てくる話です。そこでタイトルに納得。

主人公の少年は家庭の事情により、両親から離れて裕福な伯母の家に預けられることになる。伯母の家には、住み込みで働く家政婦のイサベルとその母クレメンシアの部屋が屋上にあり、少年にはその隣の部屋が与えられる。

少年は自分の元いた家と、伯母や従兄弟たちとの生活ぶりの明らかな違いに、明確な経済的格差を感じ、家の中でも学校でもなかなかなじめずに、孤独な日々を送っている。

そんな中、表題の戦争が始まるわけだが、これに対峙するイサベルとクレメンシアの態度が真逆で、2人とも真剣なところが妙にコミカルで面白い。

以下はとても共感したところ。すごい名文だなと思った。

「ゴキ◯リはひきだしや戸棚だけではなく、ぼくたちの意識のあらゆる隙間に入りこんできた。ゴキ◯リに悩まされたことのある人なら、ぼくが大げさに言っているわけではないのがわかるだろう。ゴキ◯リというのは、最後には強迫観念になるものなのだ。」(P62)

その後、戦争はあっと驚く結末を迎えるのだが、実はそれは長い長い伏線にすぎない。
最後にこの少年が昆虫学者を志すに至った経緯が(←たぶん)描写されるのだが、これがとても悲しくて切なくてやるせなく、そしてちょっと温かい。
作者はこの結末のためにこれまでの話を書いたのだなと思うと、その力量に圧倒されてしまった。


『牝猫』

主人公の大学生の女性が、2匹の仔猫(雄と雌)を迎えることになる。彼女は「この猫たちを守ってやらねば」という強い使命感を抱き、世話をし可愛がる。
雄と雌なのだから(そうでなくてもまたは1匹だけであっても)避妊・去勢手術をするのがペットを飼う上での常識だと思うのだが、彼女は生物の本能である生殖能力を奪うことに罪悪感を覚え、頑なに手術を拒否する。「そんなことのために、先生は獣医になられたのですか?」(P81)と言って。

当然ながらやがて牝猫が妊娠していることが発覚するのだが、同時に女性にもある出来事が起こり、運命に抗えず流されるままに事態が展開していく。

「アクシデントというものは存在しないという人がいる。わたしはそうは思わない。けれども、(中略)アクシデントだったのか、潜在意識のしわざだったのかはわからない。だが、考えもしなかったことなのは確かだった。」(P91)

「彼らに言わせれば、私たちは決断などしていない、私たちの選択はどれも皆、あらかじめ条件づけられているらしい。この時は、コンピュータならどう予測したかを確かめる機会はなかったし、今の私がその答えを知りたいかどうかもわからない。」(P91)

「彼女のとる行動がどれも、行き当たりばったりではなく、彼女が選んだものであるのは明らかだった。」(P93)

運命とはなにか、選択とはなにか、ということを考えさせられる作品だった。

 

 女性と雌のペット

同時に、読みながら「女性と雌のペット」というテーマで真っ先に浮かんだ作品がある。コロンビアの作家、ピラール・キンタナ著/村岡直子訳『雌犬』(国書刊行会 2022年・原書は2017年刊行)だ。
2人とも同じスペイン語圏の作家であり、刊行としてはこちらネッテルの『赤い魚の夫婦』が先ということになる。であれば、キンタナは絶対にこの『牝猫』を読んでいると思うんですよね。全く別の話ではあるのだが、扱っているテーマはシンクロしている。

『雌犬』も、この『牝猫』に負けず劣らず素晴らしい作品なので、『牝猫』が気に入った方はぜひ読んでいただきたい。200ページに満たない中編で、あっという間に読めます。世界に引き摺り込まれて、しばらく出て来れなくなります。

 

 

『菌類』

5作の中で、最も衝撃的な作品であった。
始まりは、母の足の爪に住み着く菌の話で、ふむふむ、よくある話だね、などと油断していると、とんでもないところに連れて行かれます。
え、その菌、え、それをそんな風にしちゃうの!?と、衝撃のオンパレード。

ありていに言えば、既婚者同士のいわゆるダブル不倫の話で、私は日ごろから恋愛や情事の類いのものは、単なる脳内のドーパミンの暴走による、いっときの病的な状態だと思っているので、その辺りの描写は「へー」としか思わないけれど、そこに菌の話が絡まってきた途端に、グロテスクさと残酷さでいっぱいになる。

そういった恋愛の苦悩と、菌の生態を繋ぎ合わせて、下記のように描写できようとは、まったくもって恐れ入りつつ、平身低頭して平伏すのみだ。

「恋心は、多くの場合、やはり思いがけない形で偶発的に芽生える。ある日、ほとんど気づかないほどのかすかなむずかゆさを感じたかと思うと、翌日には根をはり、まぎれもないものとなる。少なくとも見た目には。菌を根絶するのは、腐れ縁を絶つのと同様やっかいだ。」(P116)

「寄生生物というのはーー今ならわかるがーー、元来、不満をかかえた生き物なのだ。どんなに栄養を与えられ世話されても充足しない。隠れてしか生きられないのに、往々にして一方でそれが欲求不満のたねとなる。常に寂しい生き物だ。」(P119)

この驚きを、ぜひ味わってみてください。